「ただ今帰りました」
僕が伊沢邸の扉を開けると、中からいい匂いが漂ってきた。
ぱたぱたとスリッパの音と共に、愛してやまない悠季の姿が現れた。
「お帰り。早かったね」
ほっと心を和ませてくれる笑顔と柔らかなキスとで迎えてくれた。
「着替えておいでよ。もうじき夕食の支度が出来るから」
「ええ、そうします」
僕は二階へと行くと、着替えてからうがい手洗いを済ませて階下へと降りてきた。
そのまま台所へと行くと、テーブルの上にはポストから持ってきたと思われる手紙の束や放り込まれていたらしいちらしの数々が置かれていた。
どうやら悠季が持ち込んで、そのまま夕食の支度に入っていたらしい。
僕宛の数通の手紙はほとんどがDMの類で、たいしたものはなかった。
ちらしも同様。
そのままくず入れへと入れようとして、一番下に置いてあったものに気がついた。
銀色の洒落た包み紙にチョコレート色と黒のリボンがかかっている。何という名の店の物かは分からなかったが、コンビニやスーパーで売られているような出来合いのものではないように見えた。
確かに今日はバレンタイン。しかし悠季が準備した物にしては不用意すぎる。彼だったら周到に計画して僕を驚かせて喜ぶような手渡し方を考えるはずなのだが。
いや、もしかしてさりげなく渡すつもりでここに置いたのか?
「チョコレートですが、これは僕に下さるのですか?」
「ああ、ごめん。それは僕の生徒たちから貰ってきたものなんだ」
一気に見たくもないものと化した。
くるりと悠季が振り向いて僕の方へと向き直った。
「勘違いしないでくれよ。これはあくまでも義理チョコなんだ。というよりも『感謝チョコ』なんだと言って生徒達が僕らにくれたものなんだ」
母の日や父の日ではないが、どうせなら感謝をこめてと、受け持っている生徒達全員でお金を出し合って持ってきたのだという。
「個人的なものだったら僕だって受け取らなかったよ。でもあくまでもこれは僕たちへだと言うから、貰ってきたんだ。断ったりしたら、君の分を持っていこうとするだろ?そんなことがおきないようにするなら・・・・・まあ、いいかなあと思ってさ」
ほう?
悠季の生徒達は悠季が受け取るような理由を考えて、『二人に』と言い出したものか。それとも偶然か。
悠季が断れば彼らや彼女たちは僕へ持ってくるかもしれないと危惧したから受け取ったのか。
「せっかく買ってきてくれたものだから、断れなかったってこともあるんだ」
人の好意を拒絶することは悠季にとってつらいものがあるのだろう。
確かにこのチョコレートは貰うのにさほど抵抗は少ない。あくまで僕たち二人に貰ったということなのだから。
「しかし、君なら学生時代に幾らでも貰っていたのではありませんか?」
「まさか!ないよ」
びっくりした顔で笑い出した。
「フジミで女性達が『義理チョコ』だと言って男性陣にくれたチロルチョコ一つっていうのはあったけどね。でも高校でも大学でも僕がチョコを受け取ったことはないよ」
まさか。
悠季の優しい美貌やおだやかな性格が女性の目を惹くことがなかったとは思えない。
「君なら幾らでも貰えたと思うのですが」
「本当に貰ったことはないんだよ。言っただろ?高校時代の僕のあだ名は、めがね猿なんだって」
悠季はばたばたと手を振って否定した。
「もともと学校にそんなお菓子を持ってくるのは禁止されてたんだ。もっとも、生徒会長だった村上なんかはどうやってなのかは知らないけど、幾つも女子たちから貰っていたみたいだけど。
僕は物欲しげに誰かが来てくれるのを待っているのは嫌だったし、バイオリンの稽古で忙しかったからね。放課後はさっさと家に帰っていたんだ。だって嫌だろ?待っていても誰も来ないのが分かっているのに、指をくわえて期待して待っていたら馬鹿みたいじゃないか」
大学でも同じようなものだったらしい。
内気で恥ずかしがり屋の悠季の内心はプライドが高く、貰えないと信じこんで無意識のうちに拒絶していたのかもしれない。バイオリンに夢中の彼は、それ以外のものを視界に入れようとしない。
「臨採講師の頃も貰っていない、のですか?」
「うん。先生が生徒からモノを貰うってことに、学校がぴりぴりしている時期だったからかもしれない。受け取ることは一切禁止になっていたよ。もっとも、受け取れると言っても決してチョコを貰うつもりはなかったしね」
これは、悠季の自信のなさか、それともプライドのなせる業か。
おそらく悠季に渡そうと待っていた女性もいたはずだが、彼に渡しそびれていたのではないかと、圭は思う。
だが・・・・・。
――――― まあ、いい。
そんな悠季の鈍さのおかげで、今の僕は彼と共に過ごせる幸せを得ている。
文句を言う筋合いではない。
「それでは、今度は僕から。これは義理でありませんよ」
僕は用意して玄関に隠してあった豪華な百合の花束を悠季に手渡した。
「ありがとう!」
ぱっと一度に悠季の顔が輝いた。大事そうに抱えて高貴な香りを楽しんでいる。
彼のこんな嬉しそうな顔を誰も見てはいないだろう。僕だけが見ているはずだ。
「愛しています」
「うん、僕も」
僕は悠季が投げかけてきたからだを抱きしめて、欲しくなっていた唇に情熱を込めて幾つものキスを仕掛けていった。
テーブルに置かれたチョコレートにはもう一顧もすることもなく、置き去りにされた。